回憶・影の谷と隠者の住い |
かって街中に住んでいたころは谷底のように暗い路上で
いつも街路樹の上方とペントハウスのベランダの手すりのあたりで
戯れる光を見上げていたものだった。
そんな生活から抜け出て15年以上がすぎさり
なぜだか知らねど影の谷と光の誘惑の感覚が無性に懐かしい。
退職して無為の生活に入るなら田舎より都会に住むほうが俄然善哉
と近頃しみじみと考えるのである。
J.P.サルトルが孤独なその晩年をモンパルナスの墓近くの盛り場のアパートで暮らしている、
それを朝吹登水子だったかが訪ねるというTV番組を見たことがあった。
その小さく簡素な室内に、隠者の住いである、との感想をもった。
サルトルが亡くなったのは1980年4月であったから、あの番組も
もうすでに三十数年も前に見たのである。
そんな古い記憶を呼び起こすFOVEONのイメージであった。
若き日の(といっても中年だが)サルトル、朝吹登水子、ボーボワール
(今やその思想は古び誰も顧みるものはいないが、しかしそれはかって一世を風靡したものである。ある時代はそれにふさわしい思想を必要とするのだ。その時代の風景の残影は、その時代のになった歴史的課題と離れてこうして回顧するとあるノスタルジックな光と影に揺らめいている。思考停止さえしなければ思想は変容発展する。試みに仮想する。サルトルがもし今でも存命であるならそしてサルトルそのままに思想しアンガージュマンするなら当然のことに反左翼作家となっているに違いない。)