使うライカ、使わないライカその2 |
その昔、わが国にバブルというものがあった時代のことであろう、以下のような珍事があったという。
「私も、ライカでスナップを撮っているとき、町で声をかけてきた紳士に、その人が肩から下げていた自慢のライカ(たしかM3)をなかば強引に触らせられ、「どうぞ、シャッターを切っていいですよ、フィルム入ってませんから」といわれて仰天したことがある。この人、いったい何のためにカメラをぶら下げているんだろうか、と心底不思議におもったものだ。」
これは、報道写真家・神立尚紀(こうだち・なおき)氏の『撮るライカ』(光人社)から引用した。
この本は好評で続編も出版されたようだが、わたしはこれしか読んでいない。
本の「腰巻」にも以下のように記されている。
カメラを愛でるな、写真を愛でよ!
ライカ教信者に贈る異端の書。
眠れるライカを叩き起こせ!
集めたボディをなでさすり、空シャッターを切って恍惚と…M3 発表以来半世紀、いまやコレクターズアイテムと化したライカ。しかし、ちょっと待って欲しい!カメラはあくまで道具、そして撮る道具としてのライカは、デ ジカメ全盛の現代でも一級品なのだ。M型ボディ50台、レンズ100本を使い倒した報道写真家がライカの魅力を語りつくす新しいライカバイブル。
本書の背景となっていたバブル当時のおぞましい光景が垣間見えるではないか~
と、思っていたら、この本の初版本は2003年の出版であり、わたしの所有する新装版その四年後に出版されている。つまりバブルはとっくに弾けて雲散霧消しすでにデフレに突入していたころではないか?
しかしまてよ、と更に思う。
デフレ時代だからこそ持てるものはいよいよ財布を膨らませているのだ、デフレとは貨幣価値が相対的に膨張するのであるから、そのもてる金銭財産をポトラッチがごとく散らせたい人々がいるのである。
ポトラッチとは太平洋岸に住んでいたアメリカ・インデイアンに見られた風習で、裕福なものが自己の財産をみなの前で破壊したりして見せる風習だが、そのポトラッチの対象物としてのライカが存在しているのである。
また、『撮るライカ』には以下のような記述もある。
「ほどなく、R3が発売される。・・・中略・・・・その当時(引用者註、一眼レフのR3は,発売当時およそ40万円ほどしたらしい)、R3を下げて歩いている人を見たのは、同じ人を数回だけ。大阪・心斎橋筋を、三台のR3ゴールドを首と肩からぶらさげ、肩をそびやかして歩くおじさんを見かけて、なんちゅう趣味や、といぶかしく思ったことがあるくらいである。」
想像するだけでこっちが赤面したくなる光景ではある。そのおじさんがそのライカで撮影するとはとうてい思えないので、彼にとってライカとは富の象徴であり、単に見せびらかしているのは間違いがない。
レンジファインダーも一眼レフも、ライカは高価ということは誰でも知っている。だから、ライカを持ってる人、すなわちお金持ち、という公式がなりたったわけだ。
そのライカのブランド・イメージをおおいに利用しているのがほかならぬLeica Camera AG社である。
今回の新製品 Leica M9 Monoの価格設定の背景に、その思惑が見事に透けて見える。
フィルム時代はライカは一生モノで高価格でも購入する意味はあった。
しかし、デジタル・カメラは短くて一年、ながくても数年で廃物になる家電製品である。そんなものを90万円(6800ユーロ)で買う意味は文化人類学の概念で読み解くしかない、このことである♪
デジタル化以降のライカを、ポトラッチ・ライカ、と名づけようではないか
<使うライカ、使わないライカその3>に、つづく(かもしれない)