大川周明、もしカダフィを語れば |
あの世紀の茶番劇であった「東京裁判」をまさに茶番化するかのごとく、東条英機烈士の頭をペッタンして「狂人」とされ、裁判からはずされてしまった大川周明であった。
その実、彼の弁論に論破されることを恐れた連合国(United Nations, 今のいわゆる「国際連合」もUnited Nations)側が大川を忌避したのである。
大川周明は大アジア主義者であった。
しかしそこいらの大アジア主義者たちがシナとの聨合を夢想するのとはことなり、インドやアラブとの聨合を模索していたところに大川の着想の非凡さと、しかしリアリティがあったのである。
そのこと、以下の著作に詳しい。

著者・関岡氏は、例の「年次改革要望書」の真の意味を暴いた『拒否できない日本』(文春新書)で、わが国の対米属国という日米関係の本質を白日の下に曝したあの関岡英之氏である。
さて、歴史に「もし」を問うことは、歴史から学ぶ上で必須の行為である。
ここでは歴史ではなくすでに物故した思想家に問うことにしよう。
もし、大川周明がカダフィの生前の行為とその没落を目の当たりにして語ったとしたら、と問うなら如何?
善哉、とその行為を讃え、そして
遺憾也、とNATO軍の侵略を非難するであろう。
とわたしは夢想するのであるが・・・・・
以下蛇足、
「大川が私に近づいてきて、私自身も彼に興味をもったのは、彼がイスラームに対して本当に主体的な興味をもった人だったからなんです。知り合いになった 頃、これからの日本はイスラームをやらなきゃ話にならない、その便宜をはかるために自分は何でもすると、私にいってくれました。それで、オランダから『イ スラミカ』という大叢書と、『アラビカ』という大叢書、つまり、アラビア語の基礎テクスト全部と、イスラーム研究の手に入る限りの文献は全部集めて、それ をものすごいお金で買ったんです。それを、東亜経済調査局の図書館に入れておいた」(井筒俊彦、司馬遼太郎との対談・『二十世紀末の闇と光』より。司馬遼太郎『十六の話』所収)

井筒俊彦は、わが国がもった最高の知性の一人であった。
井筒は、大川の依頼に応えてアラブ古典語による原書研究に没頭していたが、戦後、占領軍によって上記の叢書は没収され米国に運ばれ某大学に死蔵された。そして儚く虫食いとなって朽ちてしまったそうである。
この後日談は、我彼の当時の歴史・宗教研究の知的水準の差を如実に表してはいないか?
しかし昨今のわが国のイスラム研究が如何になっているのか門外漢のわたしの知るところではない。
もしどなたか専門家がおられるのなら、リビアのカダフィ「革命」後のリビア国民の生活状況と、欧米の反カダフィ・プロパガンダの落差を指弾してくださるもの、と信じているのであるが・・・・
以下も参考の一助にはなろうか?