その人の面影 |
渋谷東急から駅のほうへ歩いていたときのことだった。
むこうから大原麗子そっくりの女性が歩いてくる。白い上下のスーツに長い髪、なんてそっくりなんだろうと思いつつ通りすがるのを待つ。
しかしそれは本物の大原麗子だった。
わたしが連れに「むこうから大原麗子みたいな女がくるよ」とひそひそ囁いたら、彼女はちょっと嫌な顔つきでこちらを見たからだ。
そんなことは彼女が大原麗子だったという確認の理由にはならないが、そのときの彼女の神経質そうにひそめた、そしてやや疲れたような顔つきは間違いない、大原麗子だった。
そのときの連れがいまはどこでどうしているのかは知らない。うわさでは香港あるいはカナダに住んでいると聞いたことがある。
けっこう親しくしていた人だったが、いまやもうわたしにとっては記憶の中で生きるだけの人になってしまった。
その意味では大原麗子となんら差異のない存在だ。
今そのときの連れを思い出すのは、渋谷ですれちがった大原麗子に不快な思いをさせてしまったこちらのささやかな悔恨があるからなのだ。
今日、大原麗子の不幸な訃報を見た。
まるで『居酒屋兆治』で高倉健の兆治への思いを断ち切れず身を崩し、うらぶれたアパートで一人さびしく死んでいったあのヒロインのようではないか。
大原麗子最後のドラマトルギーにみちた今世への永訣であった。
あの渋谷でのすれ違いはすでにもう三十年近い昔のことであるが、なぜか記憶の深い場所にこびりついて離れない。
これでわたしはもう大原麗子であった魂を忘れることはできなくなったようだ。
その魂の安息を願わずにいられない。合掌