習近平、ドロップアウトした劉源との差とは? |
「習近平は2000年(すでに福建省長)に、82年の基層へ下る選択をした時を回顧して、<おおくの友はわたしを理解しなかった、そして北京の戸籍を放棄しようとはしなかった。文革で苦労をなめたのだから、補償され、そして楽をするべきだ、と考えていた。基層へ下ることを志願したのは劉源と私だけだった>、と述べています。」
劉源は、近平より二歳年上で国家主席の息子でしたから、後継者養成システム・コースに乗る資格があり、また彼自身もその野心があったのかもしれません。
以下にその経歴の概略を、
1977 北京師範学院歴史学部入学。
1982 河南新郷県七里営公社副主任、副県長、県長。
1985 鄭州市副市長。
1988 河南省副省長。
1992 武装警察部隊水電指揮部第二政委兼副主任。少将警官位。
1998 武装警察部隊副政治委員。
2000 中将警官位。
2003 中国人民解放軍総後勤部副政委,中将軍官位。
2005 軍事科学院政治委員。
2007 中共第十七期中央委員。
1992年に武装警察部隊に転任するまでは、近平同様の地方官吏のたたきあげの道を歩んでいました。その後は、さらに軍へと転進し、現在中将に上っています。しかし、近平のめざましい出世とは比較しようもありません。そして近平が中央軍事委員会副主席、さらに主席と順調に官位をすすめれば、劉源は部下としてその指導をうける立場です。また党内でもただの中央委員にしかすぎません。
国家指導後継者としてはすでにドロップ・アウトしてしまったのです。それは1989年の六四虐殺と関係があるようですが、内実はあきらかになっていません。
しかしこの劉源の出世街道からの脱落をめぐっては、金鐘氏は興味深いことを指摘しています。
「習近平が提起した「補償」の二字は、まさに中共の文革後の幹部政策上の重要な原則です。政権の基礎を作った老幹部たちは、文革で蹂躙されたのち一律に補償を受けました。それは高級幹部自身およびその子女親族の権力と物質方面の補償を含んでいます。ただその補償にも多くの限定があり、権力方面においては、死亡者と生存者の間には明確な区別があります。
迫害死させられた者の子女は後継者となることはできません。「親の仇を殺す」ことが軽率に行われてはならないのです。これこそが習近平と劉源の差なのです。」
つまり、劉源が最高権力者にのぼったときに親の仇をとることを恐れている、ということです。実に、シナ人の人間観を表すハナシではないでしょうか。
さらには、死んだものがバカをみる、がその子女にもおよんでいるわけで、そこにも実にシナ的なドライでドラスティックな社会状況が見て取れます。
しかし劉源は、82年にたたぎ上げ修行のため地方へ下るとき、そのことを念頭に入れてはいなかったのでしょうか?あるいは僅かばかりでも望みはあったということなのでしょうか?さらに、あるいはそれを承知の上で北京での現状に甘んじるよりは、もっとよりよい官位を求めてのことだったのでしょうか?
彼はおそらく党内での出世はあきらめたでしょうが、軍内ではすでに中将ですから、あるいは軍内での権力を行使して党と政府に影響を与えよう、と決心したのかもしれません。
「鉄砲から政権が生まれる」とは毛沢東の吐いた名文句ですが、シナにおいては特に真実味のある言葉だからです。劉源のこれからにも、他の軍内「太子党」の動きとからめて注目しておいて良いでしょう。
母・王光美の追悼式で母の遺影を抱く劉源
<続く>
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