習近平、青春時代の光と影 |
いわゆる「文化大革命」は、路線闘争、イデオロギー闘争を装った権力闘争でした。そのロジックが外部には理解しがたく、海外左右両陣営とも「文革」の開始から収束までその理解は的外れなものが多かった所以です。
「文革」の開始は、1965年の上海『文滙報』に掲載された「海瑞の免官を論ず」の発表とされていますが、その準備段階として生粋の毛派とみられる指導者たちの失脚事件がいくつかありました。
毛沢東に「政治家、実務家、そして生きたマルクス主義」と絶賛された習仲勛が、1962年、小説《劉志丹》(劉志丹は陝甘ソヴィエト区の指導者で習仲勛の直接の上司でした)をめぐる冤罪にまきこまれて「反党集団の一味」として失脚したのは、批判した側がのちに「文革」で「大活躍」した特務の大ボス・康生や毛の政治秘書で後の「文革小組組長」・陳伯達だったことから、「文革」の前哨戦だったのでした。
しかしこのことが、習近平の進路に結果的には有利にはたらいたのですから、やはり「人間万事塞翁が馬」とは真理なのでしょう。
つまり、父親が中央指導幹部であったにもかかわらず、はやくに失脚してしまったため、習近平は「紅衛兵」の積極分子となることがなく、また、なりたくともその資格がなく、たとえば鄧小平の子女のように「紅衛兵」として活躍した後に父が失脚したため天上から地獄の奈落へ突き落とされる、ということもなかったのです。(長男の鄧朴方は、学生同士の武闘により学生宿舎の上階から突き落とされ重傷を負うも十分な治療を与えられず結局半身不随となる)
注、「紅衛兵」については、「太子党」との関連を、『シナにつける薬』で述べておいたこともあります。あらかじめ、目を通しておいていただければ、これから述べようとすることへの理解が容易になると思いますので、以下をご参照ください。
太子党の源流としての「聯動」
Intermezzo 太子党
譚力夫『血統論』と遇羅克『出身論』
1966年、初級中学(日本の中学)に入学したばかりの習近平は、おりから満を持して爆発した「文革」により学業を中断されます。そして1969年、陝西省に「下放」させられました。
俗に言われる「シナ版ロスト・ジェネレーション」の内の一人だったのです。
しかし、その「下放」先の陝西省は、父・仲勛の故郷であり「革命」指導した土地でもありました。このあたり、党の高層指導部の配慮があったのでしょうか。すなわち、「下放」先の地方指導者は、おそらくかっては父・仲勛の部下であり、近平はそこで「プリンス」として迎えられたのでしょう。
とはいえ、「下放」での暮らしは厳しく、近平は一度は逃げ帰ってもいます。しかし1975年に精華大学に推薦入学するまでの七年間の田舎での生活は、近平をして農民生活を直接肌にしみとおるほど感じるよき経験となりました。
毛沢東の、「「革命後継者」を農民の間で再教育して鍛えなおす」、という表面的な「下放」の「理念」が、はからずも近平の身上に実現される結果となりました。
このことを、金鐘氏は、「習近平の経歴を研究すると、他の太子党の群れのなからひときわ際立って秀でた特徴として見出される」いくつかの点のうちの一つにまず数えているほどです。
習近平、『開放』ホームページより転載
http://www.open.com.hk/0808p56.html
<続く>
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