アジアという幻想と虚言 |
アジアを定義するものはない。せいぜいが気分的な地理的概念にとどまっている。ユーラシア大陸、このユーラシアという言葉自体があいまいな代物で、ただ「Euro」と「Asia」を組み合わせたものに過ぎない。
ヨーロッパという文明的実態はあるが、アジアは広義にいって、ユーラシア大陸のヨーロッパ以外の部分というていどの意味でしかない。つまり「非ヨーロッパ」という否定形でしか語られないものである。
アジアを定義するものがない、と述べたのはアジアを自称する主体がないということである。それはヨーロッパの対抗概念としてヨーロッパから対象物として捉えられたにすぎない。
元来はアナトリアの西側一部をさして「アジア」と呼ばれたに過ぎない。それが「世界」の拡大とともに上記のような地域に拡大され、いまや大陸部以外の島嶼部にまでその地域が拡大してしまった。
このいわゆる「アジア」と他称される地域の国々で自国をアジアと自称する国があろうか?あるとすれば何か特殊な政治的意図が潜んでいる、と考えて良い。
あるいはシナのごとき自国のテリトリーとしてのアジアがあるのみである。シナ自体は、自国をアジアと述べた事はない。シナはあくまでシナであるからである。
西から東まで、この「アジア」と他称される地域にいくつの文明があり、またあったかを考えてみればその理由がおのずと理解される。
古代バビロン文明、ペルシア文明、インダス文明、黄河文明、「枢軸時代」といわれる古代文明だけでもこれだけあるのだ。これを一括りにできる文明的条件はもちろんない。
ゆえに、いわゆる「アジア」は一つではない。
岡倉天心が「アジアは一つ」という叫び声をあげたのは、列強帝国主義の侵略に対する対抗概念として、「非ヨーロッパ」の意味で提起したのである。
また、福沢諭吉の「脱亜入欧」は、この侵略の客体としての「非ヨーロッパ」を否定し列強に並び立つしか日本の針路はない、と述べたものである。
アジアを語る者だけの数のアジアがある、といってもよかろう。それほど曖昧な概念であるというわけだ。
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