南チロルの歴史1、 ドイツ語を話すイタリア人 |
イタリアにドイツ語を話す住民がいることはご存知でしたか?
今回訪れたのは、イタリアとはいってもドイツ語がおもに話される南チロル地方でした。
チロルといえば、映画≪サウンド・オブ・ミュージック≫や「チロリアン・ハット」や「ヨーデル」で有名なあのチロルです。
チロルは三つの地域、チロル、東チロル、そして南チロルにわかれ、前者二つはオーストリア領ですが、南だけがイタリアに属しています。行政的には、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジュ特別自治州二県の北側にあたるボルツアーノ(Bolzano, ドイツ語ではBozen)自治県ですが、その地はドイツ語では「Südtirol」(南チロル)とよばれます。
この地は歴史・地理・文化・言語・民族どれをとってもドイツ圏で、いわゆる神聖ローマ帝国(Das Heilige Römisches Reich deutscher Nation、直訳では「ドイツ民族による聖なるローマ王国」)時代はチロル伯領であったものが、1363年にハプスブルグ家に継承されオーストリア領になりました。
ゲーテの『イタリア紀行』(1786年に旅行)の巻頭は現在のオーストリア・イタリア国境であるブレンナー峠からこの地方をとおりガルーダ湖までの様子が短く紹介されています。
オーストリア・イタリア国境のブレンナー峠。イタリアの標識だけがある国境。
峠を越えると豊かなそうなチロルの村々が山間谷間に続いて現れる。
「ボーツエン(引用注、Bozen、南チロル地方首都)からトレント(引用注、Torento、上記二県の南の県都、イタリア語地域がはじまる)までは九マイルあるが、谷間は次第に肥沃になってくる。高い山地ではどうにか僅かに生きていこうとしている植物も、ここではもうことごとく力と生気とを増している。日は強く照りつけている。これで神を信ずる気持ちも取り戻せるというものだ。」(相良守峯訳、岩波文庫)
やむにやまれぬ衝動にかりたてられてイタリアへと旅立ったゲーテ先生の、徐々にイタリアへむかう気分の高揚が現れているではありませんか?
「やっとロヴェレド(引用注、Rovereto、ガルーダ湖北岸)についた。ここは国語の境目である。ここまで下ってくる途中は、相変わらずドイツ語を使ったりイタリア語を使ったりである。ところが今はじめて生粋のイタリア馭者に出くわし、また亭主もまるでドイツ語を話さない。いよいよ私は自分の語学の腕前を試さなければならない。好きな国語がこれから生きてくるのだ、日用語になるのだと思うと、私はどんなに嬉しいことだろう。」
それまでの地域が当時もドイツ語、あるいは独伊語の混在するものであったことがこれで知れます。
さてこの地が何ゆえイタリアに属することになったのでしょうか?続きは次回に。