魯迅を読み直す27、 花なき薔薇が刺すもの |
「夢想千一夜の4、沈黙の群集」という駄文の最後に魯迅の文を引用したので、それについて述べておこうと思います。
あの六四虐殺、すなわち1989年6月4日の天安門広場とその付近における虐殺をCNNで見ながら、深い怒りと混乱に襲われました。
怒りとは、もちろん自国民を殺戮する軍隊に対してです。しかし、いわゆる「人民解放軍」が国軍ではなくCCPの私兵にすぎないことを考えれば、党に反対するものを弾圧殺戮することは、決して褒められた事ではないにせよ、当然あるべきことだと納得せざるを得ませんでした。要は、武装した独裁政党に素手で立ち向い反対意見をのべたその結果を赫々と見せつけてくれただけのことなのです。
混乱とは、このおぞましき光景はどこかで見た、というデジャヴィに襲われたからでした。
そしてすぐにも思い当たったのが1926年3月18日に発生した「三一八事件」のことでした。
「三一八事件」とは、魯迅が「民国以来もっとも暗黒な日」と形容した政治事件で、時の段祺瑞軍閥北京政府が徒手空拳で請願デモをおこなった学生・市民に発砲し惨殺した事件です。死傷者数は数百人といわれています。
魯迅は、雑誌連載中の≪花なき薔薇の二≫(つまり棘のみ)というコラムを、「いまや花なき薔薇など書いている時ではない」とそれまでの文意を中断し、その事件に対する怒りを書き記し、続けて≪死地≫、≪劉和珍君を記念する≫などの一連の軍閥政府を非難する文章を書きつづったのでした。
六四虐殺のその晩、あたしはそれらの文章の収められた巻を魯迅全集から抜き出しくり返し読むことで憤りを押さえつけ(他に何ができたでしょう?)、そしてシナは「革命」の前後でなにも変わっていない、ただ民衆を殺戮する政府があるだけだ、革命とは奴隷主が交代するだけの事だと、力なく確認するだけでした。
「もし中国がなお滅亡に至らずば、これまでの史実が我々に教えるのは、将来のことは屠殺者の思いのほかに大きくはみ出すであろう・・・・
これは一つの事の終わりではなく、一つの事の始まりなのだ。
墨で書かれた謊言は、決して血で書かれた事実を覆い隠す事はできない。
血債はかならず同一物で償還されねばならない。払いが遅れるほどより多くの利息を払わねばならない。
以上はすべて無駄話である。筆で書いたものが何の関わりがあろう?
実弾が撃ち出したものは青年の血である。血は墨で書いた謊言を覆い隠せないばかりではなく、墨で書いた挽歌に酔うこともない。威力もそれを圧しつけることはできぬ、なぜならそれは騙せもせず、打ち殺すこともできないからだ。 三月十八日、民国以来もっとも暗黒な日に記す」(≪花なき薔薇の二≫)
「しかし私は実際に語るべき言葉をもたない。ただこの住むところが人の世でないことを知るのみである。四十数人の青年の血が私の周囲に洋溢して、私をして呼吸すること、見ること聴くことを困難にする。どこに言うべきことがあろうか?」
「惨状は、私の目をして見るに忍びざる。流言は、私の耳をして聴くに忍びざる。他に何を言うべきことがあろうか?私は衰亡する民族の所以は黙って声なきことに由来すると知る。沈黙よ、沈黙よ!沈黙の中で爆発するのでなければ、沈黙の中で滅亡するのだ。」(≪劉和珍君を記念する≫1926年4月1日記)
実を言えば、高校生のあたしは魯迅のこれらの文章を読むことで、シナ学を勉強してみようと決心した、いわばおいちゃんの「減点」(原点の誤り、故意にですが)だったのです。
あたしの知り合いのあるシナ人も、あの六四虐殺のあった日、すぐさま魯迅のこれらの文章を思い出したそうです。
日本とシナと国を隔てていても、心の通い合う事もあるのだと、その時は思いました。というよりむしろ、その時のあたしは魯迅を通じてシナの友人達に近付いていたというべきでしょうか?