魯迅を見直す 23、 荒涼とした革命後の世界 |
『范愛農』のハナシを魯迅は東京から始めます。
ある朝、シナからの報道で、「安徽省巡撫の恩銘が、Jo Shiki Rinに刺殺さる。刺客は捕わる。」というニュースがあり、Jo Shiki Rinとは誰かが話題になります。
「ただ紹興人でありさえすれば、またガリ勉でさえなければ、とっくに明白である。徐錫麟である。」
また続いて秋瑾も殺されたという報も入り、また徐錫麟は心臓をえぐられ恩銘の手兵に炒めて食われた、という続報もあり、みな怒り、紹興同郷会の集まりでは、早速抗議の電報を打とうという話になります。
「殺されたものは殺された、屁のような電報を打って何になる?」
と冷酷に発言したものがありました。それが、范愛農でした。彼は徐錫麟の弟子筋でした。そして「私」と彼との間で多少の嘲笑のやり取りがあり。「私」は非常に怒り、満洲人も憎いが、次に憎いのは范愛農であり、革命するなら真っ先に除かなければならないのは、范愛農である。とまで思ったことを書いています。(この辺は創作上のレトリックかも知れません。魯迅の性格からすると、冷酷な発言をしたのは彼自身だったかも知れません。)
そして革命一年前の春、魯迅が故郷で教員をしていた際、范愛農を見かけます。
「互いに熟視すること二三秒、我々は同時に言った。
おお、君は范愛農!
おお、君は魯迅!
何故かは知らず、我々は笑い出した。それは互いの嘲笑と悲哀であった。」
貧相ななりをした彼は、それからの来し方や当時のことを話すうち、
「あの日、君はとくに僕に反対していたね、しかも故意に、どういうことだったのかな?」
「君はまだ知らないのかい?僕はずっと君を憎んでいた、僕だけじゃない、我々さ。」
「あの時より前、君は僕を知っていたのかい?」
「知らぬ事があるまい?我々が横浜に着いた際、君が迎えに来ただろう?」
そして范愛農を初めて見かけた時の回想が描写されます。十数人の同郷の留学生を迎えに出た事。荷物から纏足用の靴が転がり出て税関員が公務をそっちのけでしげしげと見ていたこと、故に恥ずかしくもあり思わず頭を振ったこと。列車に乗り込み席を譲り合ううち発車となり、「一群の読書人」たちが重なり合って倒れ、「私」はまたも頭を振った事など。
そんな昔話をしながら二人はうちとけあいます。そして飲んで莫迦話をし合う仲となります。
翌年、武昌蜂起があり、紹興も光復します。二人のお馴染みでもあったろう王金発という革命家が新しいガバナーとしてやって来ます。范愛農も師範学校の監学という職を得ます。しかし革命後の混乱が、とくに金銭をめぐるトラブルが続きます。
魯迅は、日本留学仲間の同郷人・許寿裳(教育家、著書に『亡友魯迅印象記』あり。戦後、日本語能力ゆえに台湾に派遣され台湾大学で教えるも国民党に暗殺さる。)から手紙があり南京で役人になるよう誘われる。
「愛農は賛成ながらも凄涼として言った。
「此処もこんな具合だから、長くは住めぬ。君は早く行きたまえ。」
その後、愛農は失職したことを聞き、なにか政府に職はないかと考えながらも機会がなく、そのうち彼がどこかに失踪してしまったことを聞き、しばらくして水に落ち溺れ死んだという消息が入ります。
そして、彼がそのころ魯迅が電報で呼んでくれる事を心待ちにしていたことと彼が死ぬ経緯を知ります。
「ある日、幾人かの新しい友人と約して船に乗り芝居を見に行った。帰ったのは夜半だった。また大風雨であった。彼は酔ってい、どうしても船辺で小用を足そうとした。皆は止めたが、聞かず、自分は落ちる事はないと言い張った。しかし落ちてしまった。泳げるはずなのに、沈んだままだった。
翌日、死体を捜したところ、菱沼で見つかった、それは直立していた。」
魯迅がこのハナシで范愛農を通して語るのは、日本での留学生たちの気概と、革命後の荒涼とした風景です。思い出すのは革命のため命を投げ出し食われてしまった同志たち、また革命後にお役人に収まるかっての革命家達、一度は職を得てもつまらないいざこざから職を失い漂白する「読書人」。みな魯迅の心象風景には荒涼としたものとしてしか写りません。その表徴が范愛農であるようです。
魯迅は、「寂寞」という言葉でその時の心情を表現しますが、それは革命とはいったい何だったのか、という問いからのものでありました。その革命後の混乱と人の世とも思えぬ社会は、なおも魯迅が死ぬまであらがい続けなければならないほど続くのですが、彼にしてもそのような人の世とも思えぬ世の中が21世紀のシナにまで生き残るとは思ってもいなかったでしょう。