魯迅を見直す 20, 薬としての血饅頭 下 |
http://fiorina.blog24.fc2.com/blog-entry-253.html
さて秋瑾の場合ですが、その最後の潔さといい、また美女ということもあり、辛亥革命後は愛国者の鑑とも見なされ、「巾帼英雄」(巾帼とは婦人用の頭巾、すなわち女英雄)ともいわれます。「巾帼英雄」といえばすでに秋瑾の代名詞となり、他の場合にはほとんど使用されません。
杭州は西湖の畔、杭州飯店の近く、中唐の詩人・李賀の詩・「蘇小小墓」で有名な西陵下にその像が建てられています。あまりセンスのよいものではありませんが、他国のことゆえよしとしましょう。
また彼女が処刑されたその場所には、記念塔が建てられていることは、「魯迅を見直す 8、 主人と奴隷」、
http://marco-germany.iza.ne.jp/blog/entry/81754/
でふれたとおりです。また彼女の実家は「秋瑾故居」として参観できます。武田泰淳が訪れた際は、閉館中だったようですが、あたしは参観できました。
おなじ紹興市内にある魯迅故居とも似た、立派な屋敷です。場所は魯迅の家とは離れた町外れにありますが、その父がアモイで官僚をしていたためか比較的裕福な家庭だったことが、その屋敷からもうかがえました。
さて、魯迅は同郷の彼女を記念して幾つかの文章を書きましたが、小説として書かれたのが『薬』です。
あらすじは、革命家・夏瑜が捉えられ処刑される。その町に住むある家庭には一人の肺病を病む子供がいた。肺病には人間の血が薬になると言われている。処刑の朝、首切り屋から罪人の血を饅頭(マントウ)に浸したものを買った子供の親は、その血饅頭を子供に食べさせるがその甲斐なく子供は死ぬ。郊外の墓で革命家の母と子供の母がいた。
というものですが、ここで読者の皆さんは、「『支那人間に於ける食人肉の風習』5」、5)医療の目的での食人について。を思い出されたでしょう。
「千八百六十五年の頃、北京西郊で罪人を処刑した時、鄶刀手(首切り屋)はその斬り首より噴出する鮮血に饅頭(マントウ)を漬し、血饅頭と名つけて市民に販売したという。」(Peking and the Pekingese. Vol. II, pp. 243/244)
とまったく同様なことが行われたのです。
そのシーンを魯迅は以下のように描写しています。
「老栓(子供の父)もその方を見た。しかしただ一塊の人の背中が見えただけだった。みな首を長く伸ばし、アヒルを髣髴させた。無形の手でつかまえられ上のほうへ引っ張られでもしたように。静かになったかと思うと、少しばかり音がしたようだった、すぐに動揺が起った。ホーッとばかり声がして、みな後ろへ下がった、まっすぐ老栓の立っている場所まで散りじりとなり、押し倒されそうだった。
オイ、銭と物との交換だ!
一人の全身真っ黒な人が老栓の前に立った。眼光はまるで二振りの刀のごとく、老栓を縮みあがらせるほどだ。その人は大きな手を広げ、片方の手で真っ赤な饅頭をつまんでいた。その赤いものはまだ一滴一滴と下に滴った。」
老栓は、その血饅頭を買い取り子供に食べさせました。なにしろ大事な「薬」なのですから。
魯迅の表現しようとしたものは何だったのでしょうか?それは読者の皆さんがそれぞれそのテキストから読み取るべきものでしょう。しかし、ここに描かれた処刑者の血を浸した饅頭を売るものと買うものがいる社会の、我々の社会との遠い隔絶に思いをいたさざるを得ないのが我々日本人の正直な感想ではないでしょうか?
そして、死刑囚から取り出した臓器を販売するとか、あるいは臓器欲しさに死刑囚を増やすとか、はたまた政治犯の生体から臓器を抽出する、といった報道を目にするたびに、あたしはシナの文明の不変性に考えをめぐらさずにはおれません。