魯迅を見直す 19, 薬としての血饅頭 上 |
『薬』は、魯迅と同郷の革命家・秋瑾の処刑が背景となっています。秋瑾については、「魯迅を見直す 8、 主人と奴隷」、 で触れた事もありますから、もうご存知でしょう。そして前回もすこし言及しました。
この秋瑾は、辛亥革命の前段階蜂起ともいえる武装蜂起を準備中にとらえられ処刑されました。この事件は、じつは徐錫麟の武装蜂起事件と密接な関係があり、それどころか光復会という革命組織が計画した安徽省と浙江省で同時武装蜂起だったのです。
徐錫麟の蜂起が失敗し、その仲間が計画を吐いたため、秋瑾逮捕となったわけでした。
これについては、武田泰淳に『秋風秋雨人を愁殺す』という伝記歴史小説(?)があります。そこから少し引用しましょう。
「徐錫麟が安徽巡撫の恩銘を射殺したのは、同じ光緒三十三年の五月二十六日、あくる二十七日に徐は安慶市において殺されている。」
「秋瑾女士が刑死したのは、一九0七年七月十五日、光緒三十三年の六月五日午前、明治四十年のことである。
逮捕されたのは、六月四日の午後,紹興の大通学校(大通学堂)において、一夜明けて処刑されたのは、紹興の軒亭口においてである。」
裁判もなしのスピード処刑だったわけです。
詳しい歴史的経過やその背景、この二つの事件のその後の革命の発展への影響などは省略します。興味のある方は、上記『秋風秋雨人を愁殺す』をご覧ください。
ここでは徐錫麟と秋瑾の処刑について述べておくにとどめます。
まず徐錫麟ですが、殺された恩銘の家族のたっての願いにより、生きたまま心肝をとりだす、という処刑法になりました。
読者の皆さんは、ここで「『支那人間に於ける食人肉の風習』4」、
4)憎悪の極み、怨敵の肉を喰らう場合、を思い出してくれるでしょう。
「要するに支那人の間に、罪人の肉を喰らうことは、一種の私刑として公認の姿となっておる。」
「怨まれたる、もしくは悪まれたる罪人は、所定の公罰を受くるのみでなく、同時に民衆又は仇家に噬食されるという私刑を受けねばならぬ。」
このときは、家族に代わり恩銘の部下がその心肝を食しました。
ただし、生体から心肝をとりだすことが、この際は憚れたのか、まず受刑者の睾丸をつぶして殺してから心肝を取り出したそうです。
後に辛亥革命が成ってから、かっての同志が徐を祀り、墓も杭州郊外竜井村の外れに建立されました。その墓については、一度、「探鳥の楽しみ 4、カササギ」、でふれたこともありました。
http://marco-germany.iza.ne.jp/blog/entry/72596/
おまけ