魯迅を見直す 16, 群集の愛国的尊大さ |
「中国人はもとより些か尊大である。ただ惜しむべきは「個人の尊大さ」はなく、すべて「群集の愛国的尊大さ」であることだ。これすなわち文化の競争に失敗した後、奮起して改善できない原因である。」
と書き始めるのは、雑感『三十八』、やはり1918年の『新青年』に発表され、『熱風』に収められました。
「個人の尊大さ」はおおよそ天才か狂気によるもので、凡庸な大衆とは異なるという自負により世俗を嫌うが、一切の新思想や政治的、宗教的改革は彼らを発端とする。ゆえにそのような「個人の尊大さ」を多くもつ国民は幸運である、と述べた後に魯迅は以下のように続けます。
「群れをたのむ尊大さ」「愛国の尊大さ」は、同類相助け異分子を攻撃し、少数の天才に宣戦する。別の国の文明に対する宣戦にいたるは、その次に控える。
彼らは人に誇示する特別な才能はいささかも無く、よって国の名義を騙る。そして国の習慣制度を高く持ち上げ、賛美すること甚だしい。彼らの国粋斯くの如き光栄であるから、彼らもまた自ずと光栄である。(中略)
ただ数を頼み大騒ぎをして勝ちを制す。勝ったなら自分もその一員であるから勿論自分も勝ったのである。もし負けたなら、群れの中には幾多の人があるのだから必ずしも自分が馬鹿を見るわけではない。」
北京の反日デモ。2005年4月。「大紀元」より
http://jp.epochtimes.com/jp/2005/04/html/d63582.html
これぞすなわち「阿Q精神」の一つの典型的発露ではないでしょうか?
魯迅は続けて「愛国的尊大さ」を五種類に分類します。
1)「中国は地大博物、開化は最も早く、道徳は天下第一」これは完全なる自負。
2)「外国の物質文明は高いが、中国の精神文明はなお良い」
3)「外国の物は、中国にかってあった。」
4)「外国にも乞食はいるし、ボロ屋もある、娼妓も南京虫もいる」これは消極的反抗。
5)「中国は野蛮なのが良い。中国の思想は昏乱していると言うが、それこそ我が民族が作り出した事業の結晶である。(中略)過去から昏乱し始め未来まで昏乱し続けるのだ。(中略)我らは四億人(当時)もいるのだ、誰が絶滅できようか?」
1)から4)まではまだしも、5)のように開き直られるとどうにも救いようがありませんね。しかし、現在大陸から聞こえてくる叫び声や、恐喝恫喝の声はこの5)的心情から発せられているのではないかと疑うのはあたしだけでしょうか?
最後に魯迅は言っています。
「(5のように言うものは)自ら滅亡に向かう民族を見かけたら、些かの遠慮も無く、彼らをして滅亡せしめる。我々は自分も生き延びたいし、他人もまた生き延びるを希望する。他人の滅亡を言うに忍びず、また彼らが滅亡への路上を歩むのを恐れ、我々を道づれにするを恐れる、故にかように急いでいるのである。もし現状を改めずに栄え真の自由で幸福な生活が得られるなら、野蛮もまた良いことだ。但し誰が「然り」と答えられようか?」
これは当時、魯迅の自国民への警句だったのですが、いまや我々はこの言葉をシナの「愛国主義」に対してそのまま用いるとして何の齟齬もないのに驚かされます。
嗚呼、シナよ何処へ行く?今こそ魯迅の声に耳傾けよ、と叫ばずにはおれません。