魯迅を見直す 5、 革命と「革命」 |
こういう日本の国柄を若き魯迅は知っていた。日本に留学してましたからねえ、しかも七年間も(1902年22歳から1909年29歳まで)。そしてシナも日本のように近代化し強くまとまった国として西洋列強に対して行かねばならない、それがセンセーの愛国心の出発点でした。
さて魯迅の愛国の対象たる国がいったいシナにあっただろうかって話になるんですが、これがなかった今もない、っていうのも、今までお付き合いくださった読者のみなさんなら驚きはされないでしょうねえ。
魯迅の愛国は愛すべき国を作ろう、っていう愛国だった、と先に言っておきましょう。若き魯迅センセーが革命を志したのは、満洲人の清帝国を倒してシナ人(漢・チャイニーズ)自身の国を作ろう、という時代でした。
清末の高官たち(http://irc.aa.tufs.ac.jp/thomson/vol_4/4_2.html)
以前にも述べましたとおり、シナという国はなくて皇帝が支配する天下だけがあった、そしてその天下は清朝末期にいたって西洋の帝国主義に食い荒らされようとしていました。
そこで志をもったシナ人諸君は、日本のように近代国家(国民国家)に生まれ変わって帝国主義に対抗しようとしたわけです。で先ずは清朝政府を改革しようとしましたが、時の権力者・西太后に弾圧され失敗し、じゃあてんで革命に走るわけです。
そんなかでも浙江地方で組織された革命団体が『光復会』。紹興酒で有名な浙江省紹興(かっての越の国、会稽)生まれの後の魯迅・周樹人青年もその光復会に入会して革命を目ざしました。
シナには、我国のような万世一系の天皇制がない、反対に皇帝は誰にでもなれる、天の命を革める(天帝と人の王との命約を革める(書き換える)、つまり皇帝をとっかえる意味ですが)、これすなわち漢語の元の意味での革命であります。
このシナ独特の「革命」思想(マルクス主義、毛沢東思想じゃあありませんよ)のせいで、シナはもう滅茶苦茶になっちまいました。シナが乱れる根本の原因がここにあるんですね。誰だって皇帝になれるってんじゃあ乱れない方がおかしいやね。と日本人ならすぐわかることなんですがねえ。