南チロルの歴史3、国語をとりもどす |
第一次大戦後のイタリアはファシズムの道を突き進みましたので、南チロルに対しても強力なイタリア同化政策を実施しました。すなわちドイツ語使用禁止、地名のイタリア語への変更、さらには南イタリアからの移民の奨励などでした。
実にファシズムの名に恥じない政策ではありました。そしてヒトラーのドイツも、イタリア同化をよしとしない南チロル住民をドイツへ受け入れもしたのですから、不快ながらも同意したというところだったのでしょうか?
ボーゼン旧市街の西正面入り口に立つ凱旋門。イタリアの政治権力がこの地に及んだことの記念碑。
故郷を捨てドイツ・オーストリアへ移住できるものは、おそらく限られた人たちだったでしょう。それは近い例として香港「復帰」以前の住民の海外移住の状況からも推して知ることができるでしょう。一般民衆は土地と財産をすてて故郷を離れるすべはないのです。
ムッソリーニ政権の連合国への投降後は、ナチス・ドイツの占領を受けドイツ語を回復したのもつかの間、戦後またイタリアに復帰します。国語を再び失った人々の思いは如何だったでしょうか?
その後、完全自治、チロル統一を求める運動もありテロ活動も行われ、ちょうどバスクや北アイルランドのような様相をきたしてもいたのですが、現在は大幅な自治も認められ、ドイツ語による教育も行われています。
またオーストリアのEU加盟にともない、国境が消滅し両国間の人、もの、資本の移動はまったくの自由となりました。
そのためか、現在は表面上はめだった紛争問題はないように見受けられます。
さてこの地方現在の言語使用状況はというと、各地平均した場合はドイツ語が約70%、イタリア語27%、ラディン語というイタリア語にちかいラテン語系の現地語がその他少数という統計があります。
Kalterer(Caldaro)のマルクト広場。ドイツ・オーストリアそのままの風情。
しかし地方の農村では90%以上がドイツ語使用という村が多く、ただ首都のボーゼンでは、イタリア語70%、ドイツ語が25%と逆転しています。
これは二つの戦後に実施された、南部イタリアの貧窮したシチリアやサルデーニアからの移民が首都に集中していることによるものです。それゆえ旧市街は中世ドイツ風、それをとりかこむ新市街は現代イタリア風という街作りでその違いは歴然としています。
ドイツの街並みそのままのボーゼン旧市街の裏町
ボーゼンの街をぶらついていて聞こえてくるのはイタリア語が圧倒的に多く、農村部ではドイツ語が多い、という印象です。
しかし見るからにイタリア人という人々も普通にドイツ語も話しますから、たぶんバイリンガル教育が行われているのでしょう。それゆえか、ドイツ語住民もイタリア国民として表面上はつつがなく暮らしているように見られます。
それはドイツ語をとりもどしたからに相違ないとわたしは考えます。国語の回復が住民のなによりの心の平安をもたらしているのではないでしょうか?
さて三回にわたったこの話から、皆さんは何を感じ考えられるでしょうか?
わたしは、風来坊さんこと元・平成退屈男さんのブログで語り合った山本夏彦の言葉、「祖国とは、国語だ」をあらためて思い出しました。
「私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない。」(「祖国とは、国語だ」、『完本文語文』文春文庫所収)
阿比留さんもそのエントリー、政治への「天職」が試されているのかも
で、わたしのコメントに答えてくだすった言葉に、
「マルコおいちゃん、私はひたすら、日本と日本人が真っ当に生き、そして生き延びてほしいなあ、子供たちが公用語として中国語を学ばないですむ社会であってほしいなあと思っています。ささやかで切実な願いです。」
と述べられています。わたしのこの南チロルについての駄文を読んでくださっているかのごときお言葉でした。
われらの隣国・ファシズム大国では、イザ読者にはいわずとも知れたあのような他民族への帝国主義的占領、民族浄化、被占領地へのシナ人大量移民がいまも行われています。そしてわが日本を食いつくし併合しようと虎視眈々と軍拡を進めています。
わたしも阿比留さんのもたれる危惧をわが祖国にもたざるをえません。願わくば祖国日本が国語を「祖国」として健全に平穏に維持できうるように、祖国を離れ国語の中にしか「祖国」日本を住めぬ身として何者か人為をこえた存在に祈念するばかりです。